2022年 09月 25日
106 青木周蔵 那須別邸(那須塩原市)
旧青木家那須別邸 とちぎ明治の森記念館
明治の末にドイツ・ベルリン工科大学で学んだ建築家の松ヶ崎萬長の設計による那須野が原に建つドイツ式工法の洋館。
青木周蔵の別荘として明治21年(1888)に建築され、その後増築を重ね青木がアメリカ大使を退いた翌年の明治42年(1909)に大規模な増築工事を行いほぼ現在の姿になった。昭和40年代まで青木家の別荘として利用された。建物設計は、岩倉使節団とともに留学生としてドイツに渡りベルリン工科大学で12年間学んだ松ヶ崎萬長で、建築家として七十七銀行本店などを設計した。松ヶ崎の設計はドイツ建築の影響が強く表れ、建物構造は全体がドイツの木造建築の一般的な架構と同様の構成を見せているという。軽快な外観構成は、わが国にはあまり例の無い鱗型のスレートを使用したことに特色がある。この時代に造られた明治華族たち洋館とは異なり、豪華さや華美な装飾は無く板張りにペンキ塗りの質素な造りに徹している。現地の大谷石を要所に用い、構造面では軸組みに筋交いを多用し頑丈さが見られ、いかにもドイツ建築と思われる。栃木県が平成8年から10年にかけ大規模な修理事業を行い、現在は一般硬化されている。
青木周蔵氏について
明治時代の外交官、官僚政治家。子爵。長州藩出身。天保15年(1844)医師三浦玄仲の長男に生まれ、のち蘭方医青木研蔵の養子となる。長崎で医学を修め、藩命によりプロイセンに留学、明治6年(1873)外務一等書記官心得となり翌年帰国、本省勤務を経て駐独公使を務める。1885年以降外務大輔、次官を歴任、条約改正交渉を担当する一方、1887年地方制度編纂委員に任命された。1889年には第一次山縣有朋内閣の外相に就任、大隈重信前外相が激しい反対運動のため失敗した後を受け対等主義による条約改正交渉に着手した。松方正義内閣にも留任して交渉を継続したが、1891年大津事件の責任を負って辞任。翌年ふたたびドイツ公使となり、イギリス公使を兼任して条約改正交渉を進め1894年日英通商航海条約の調印に成功した。しかし三国干渉に際してドイツの動向を見誤ったとして政界一部の批判を招いた。1898年には第二次山県内閣の外相に就任、義和団事件に対する出兵外交を担当するとともに、朝鮮への侵略政策を画策するが、内閣総辞職で実現しなかった。枢密顧問官を経て明治39年(1906)駐米大使となり、日本人移民問題などの処理にあたった。ドイツ貴族の娘を妻とし、親独派で長州藩閥系の外交官として独自な地位にあった。大正3年2月16日死去。
青木別邸前に広がる農場風景
青木別邸に正面玄関に続く並木 (樹木は杉か?)
農場から別邸の遠景 アメリカ映画「風と共に去りに」に出て来そうな・・・・邸
正面外観
サルビアが緑の芝生と白い建物に映える
南東の部屋の外観 2階は和室になっている
平屋部分
東側には地下室が設けられている
角形(葉型)のスレート
北側の造りは南側と同じような造り
円形(鱗型)のスレート
西側外観 こちらに見学用入り口が設けられた
見学者の入り口側 広いベランダ
ベランダの柱間の幕板に模様が彫られた
南側
玄関入り口 広いポーチはベランダの続き 階段は地元の大谷石
玄関ドア 欄間が半円形
玄関から正面の通路を見る
間取り
正面玄関 玄関扉は閉じられている
正面玄関は広く2階の階段室に繋がる
青木周蔵が使用した馬車 那須野が原の農場のオーナーになった明治の元勲たちの交通手段は馬車を使用した ほとんどの馬車はヨーロッパで製造されかなり高額なものであった 青木は黒磯まで汽車で来て黒磯駅から約7Kほどの杉並木のあるこの地まで馬車を利用した 杉並木の中を通り抜ける馬車はよく似合ったと言われる
正面玄関から応接室への廊下
角が見事な鹿の頭骨 青木周蔵がドイツから帰る際に鹿を数頭連れ帰り、牧場に放牧し繁殖させ鹿狩りも楽しんだらしい
応接室側から正面玄関のホールを見る
応接室
1階の各部屋とも天井が9尺(2.7m)とかなり高い 布張り 天井は板張りの天井(化粧)根太に塗装と室内の造りはいたって質素
地元特産の大谷石を暖炉の背に使用
西側のドアが見学者の出入り口に使用され、その入り口左手に見学者受付を設けている
夫人室 応接室の隣に設けられた広い部屋 現在はごらんのとおり説明写真が張り出され部屋の雰囲気を損ねている
青木周蔵は明治10年(1877)にドイツ貴族の令嬢エリザベートと結婚 この邸はエリザベートのために建てられたとも言われる
壁が布張りの夫人室 暖炉もアクセントとした大谷石に組み込まれている
窓に添って凹みのある化粧コーナーが設けられた クラシックな造りの化粧台は当時夫人が使用していたものと思われる 飾り柱にアーチの縁取り、そして内装は布張りで他の部屋と比べて少し上等な仕上げは夫人への思いやりか?
暖炉
暖炉の上部 大谷石と天井との取り合い
浴室は置きバスタブ 夫人室と主人室の間に設けられた 猫足で支えているバスタブ
主人室
アメリカ製のストーブと青木が使用したピアノ
青木周蔵が着用した正装用衣装
青木周蔵の肖像
大食堂
居室 居間と思われる部屋は現在別邸の説明資料が展示されている
この部屋に別邸の柱などの構造が判るように壁の中を見せている 柱は13.5㎝の太さ 筋交いがしっかり施されて耐震性が高いと思われる
2階へ
応接室、夫人室、畳敷きの部屋を除く内装はすべて横羽目板張りに塗装仕上げ
2階 和室 10畳間であるが洋間に畳を敷いた和室のためか10畳間としては狭く感じる
2階寝室
2階階段ホール 階段は2つありこちらは玄関から続く客用の階段
屋根裏部屋への階段も見える
ベランダへの出入り口
ベランダ
ベランダから邸の前を見る
那須野が原の農場と明治華族
本州における最大級の原野が広がってた栃木県の那須野が原は、明治の中頃から農場としての利用が注目された。当時の貴族階級と地元の名士の人たちが競ってこの広大な原野を切り開いていった。茅原と石ころの多い原野を開墾し、できた農場は40場にもなった。そのうち半分は明治貴族の華族たちが開拓したものだった。東京から近い場所に西洋貴族のように領地を持ちたい。そんな夢を抱いていたのか、多くの華族が那須野が原に農場や別荘を持った。
大正14年における那須野が原の主な農場
明治の末にドイツ・ベルリン工科大学で学んだ建築家の松ヶ崎萬長の設計による那須野が原に建つドイツ式工法の洋館。
青木周蔵の別荘として明治21年(1888)に建築され、その後増築を重ね青木がアメリカ大使を退いた翌年の明治42年(1909)に大規模な増築工事を行いほぼ現在の姿になった。昭和40年代まで青木家の別荘として利用された。建物設計は、岩倉使節団とともに留学生としてドイツに渡りベルリン工科大学で12年間学んだ松ヶ崎萬長で、建築家として七十七銀行本店などを設計した。松ヶ崎の設計はドイツ建築の影響が強く表れ、建物構造は全体がドイツの木造建築の一般的な架構と同様の構成を見せているという。軽快な外観構成は、わが国にはあまり例の無い鱗型のスレートを使用したことに特色がある。この時代に造られた明治華族たち洋館とは異なり、豪華さや華美な装飾は無く板張りにペンキ塗りの質素な造りに徹している。現地の大谷石を要所に用い、構造面では軸組みに筋交いを多用し頑丈さが見られ、いかにもドイツ建築と思われる。栃木県が平成8年から10年にかけ大規模な修理事業を行い、現在は一般硬化されている。
青木周蔵氏について
明治時代の外交官、官僚政治家。子爵。長州藩出身。天保15年(1844)医師三浦玄仲の長男に生まれ、のち蘭方医青木研蔵の養子となる。長崎で医学を修め、藩命によりプロイセンに留学、明治6年(1873)外務一等書記官心得となり翌年帰国、本省勤務を経て駐独公使を務める。1885年以降外務大輔、次官を歴任、条約改正交渉を担当する一方、1887年地方制度編纂委員に任命された。1889年には第一次山縣有朋内閣の外相に就任、大隈重信前外相が激しい反対運動のため失敗した後を受け対等主義による条約改正交渉に着手した。松方正義内閣にも留任して交渉を継続したが、1891年大津事件の責任を負って辞任。翌年ふたたびドイツ公使となり、イギリス公使を兼任して条約改正交渉を進め1894年日英通商航海条約の調印に成功した。しかし三国干渉に際してドイツの動向を見誤ったとして政界一部の批判を招いた。1898年には第二次山県内閣の外相に就任、義和団事件に対する出兵外交を担当するとともに、朝鮮への侵略政策を画策するが、内閣総辞職で実現しなかった。枢密顧問官を経て明治39年(1906)駐米大使となり、日本人移民問題などの処理にあたった。ドイツ貴族の娘を妻とし、親独派で長州藩閥系の外交官として独自な地位にあった。大正3年2月16日死去。
青木別邸前に広がる農場風景
青木別邸に正面玄関に続く並木 (樹木は杉か?)
農場から別邸の遠景 アメリカ映画「風と共に去りに」に出て来そうな・・・・邸
正面外観
サルビアが緑の芝生と白い建物に映える
南東の部屋の外観 2階は和室になっている
平屋部分
東側には地下室が設けられている
角形(葉型)のスレート
北側の造りは南側と同じような造り
円形(鱗型)のスレート
西側外観 こちらに見学用入り口が設けられた
見学者の入り口側 広いベランダ
ベランダの柱間の幕板に模様が彫られた
南側
玄関入り口 広いポーチはベランダの続き 階段は地元の大谷石
玄関ドア 欄間が半円形
玄関から正面の通路を見る
間取り
正面玄関 玄関扉は閉じられている
正面玄関は広く2階の階段室に繋がる
青木周蔵が使用した馬車 那須野が原の農場のオーナーになった明治の元勲たちの交通手段は馬車を使用した ほとんどの馬車はヨーロッパで製造されかなり高額なものであった 青木は黒磯まで汽車で来て黒磯駅から約7Kほどの杉並木のあるこの地まで馬車を利用した 杉並木の中を通り抜ける馬車はよく似合ったと言われる
正面玄関から応接室への廊下
角が見事な鹿の頭骨 青木周蔵がドイツから帰る際に鹿を数頭連れ帰り、牧場に放牧し繁殖させ鹿狩りも楽しんだらしい
応接室側から正面玄関のホールを見る
応接室
1階の各部屋とも天井が9尺(2.7m)とかなり高い 布張り 天井は板張りの天井(化粧)根太に塗装と室内の造りはいたって質素
地元特産の大谷石を暖炉の背に使用
西側のドアが見学者の出入り口に使用され、その入り口左手に見学者受付を設けている
夫人室 応接室の隣に設けられた広い部屋 現在はごらんのとおり説明写真が張り出され部屋の雰囲気を損ねている
青木周蔵は明治10年(1877)にドイツ貴族の令嬢エリザベートと結婚 この邸はエリザベートのために建てられたとも言われる
壁が布張りの夫人室 暖炉もアクセントとした大谷石に組み込まれている
窓に添って凹みのある化粧コーナーが設けられた クラシックな造りの化粧台は当時夫人が使用していたものと思われる 飾り柱にアーチの縁取り、そして内装は布張りで他の部屋と比べて少し上等な仕上げは夫人への思いやりか?
暖炉
暖炉の上部 大谷石と天井との取り合い
浴室は置きバスタブ 夫人室と主人室の間に設けられた 猫足で支えているバスタブ
主人室
アメリカ製のストーブと青木が使用したピアノ
青木周蔵が着用した正装用衣装
青木周蔵の肖像
大食堂
居室 居間と思われる部屋は現在別邸の説明資料が展示されている
この部屋に別邸の柱などの構造が判るように壁の中を見せている 柱は13.5㎝の太さ 筋交いがしっかり施されて耐震性が高いと思われる
2階へ
応接室、夫人室、畳敷きの部屋を除く内装はすべて横羽目板張りに塗装仕上げ
2階 和室 10畳間であるが洋間に畳を敷いた和室のためか10畳間としては狭く感じる
2階寝室
2階階段ホール 階段は2つありこちらは玄関から続く客用の階段
屋根裏部屋への階段も見える
ベランダへの出入り口
ベランダ
ベランダから邸の前を見る
那須野が原の農場と明治華族
本州における最大級の原野が広がってた栃木県の那須野が原は、明治の中頃から農場としての利用が注目された。当時の貴族階級と地元の名士の人たちが競ってこの広大な原野を切り開いていった。茅原と石ころの多い原野を開墾し、できた農場は40場にもなった。そのうち半分は明治貴族の華族たちが開拓したものだった。東京から近い場所に西洋貴族のように領地を持ちたい。そんな夢を抱いていたのか、多くの華族が那須野が原に農場や別荘を持った。
大正14年における那須野が原の主な農場
我が街の町内は13丁の街区で構成され、2万人の住民が暮らす総面積約500ヘクタールである。比較すると如何に広大な農場かが判る
案内図
案内書
青木周蔵 那須別邸
訪問日 令和4年(2022)9月22日(金) 天候曇り
見学後記 那須に泊まる予定がある日は、台風14号の接近で少々心配したが大事なく那須行きを敢行できた。那須野が原には明治の家族たちが農場を所有しそのために別邸が造られ、今でも現存している邸がいくつかある。青木別邸のほかに山縣有朋別邸や大山巌別邸、松方正義別邸、乃木希典別邸などである。見学したいと思い、調べてみたが非公開や展示館や記念館としてあることなどから写真は撮れないことが判ったので今回は青木邸のみとなった。ほかに塩原温泉にある「塩原御用邸」(一部:4間のみ現存)を見学したが当ブログへの掲載はしない。
建物データ
文化財 国指定重要文化財
建築年 明治21年(1888)
建て主 青木周蔵
設計者 松ヶ崎萬長
建物構造 木造2階建て
建物面積 318.9㎡
敷地面積 ー
所有者 栃木県
管理者 道の駅「明治の森・黒磯」那須塩原市農業公社
開館時間 9:00~17:30
休館日 毎週月曜
入館料 200円
所在地 栃木県那須塩原市青木27
TEL 0287-63ー0399
アクセス 東北自動車道 黒磯・板室IC 6680m 約10分
参考資料 旧青木家那須別邸案内書
青木周蔵 那須別邸 終了
案内図
案内書
青木周蔵 那須別邸
訪問日 令和4年(2022)9月22日(金) 天候曇り
見学後記 那須に泊まる予定がある日は、台風14号の接近で少々心配したが大事なく那須行きを敢行できた。那須野が原には明治の家族たちが農場を所有しそのために別邸が造られ、今でも現存している邸がいくつかある。青木別邸のほかに山縣有朋別邸や大山巌別邸、松方正義別邸、乃木希典別邸などである。見学したいと思い、調べてみたが非公開や展示館や記念館としてあることなどから写真は撮れないことが判ったので今回は青木邸のみとなった。ほかに塩原温泉にある「塩原御用邸」(一部:4間のみ現存)を見学したが当ブログへの掲載はしない。
建物データ
文化財 国指定重要文化財
建築年 明治21年(1888)
建て主 青木周蔵
設計者 松ヶ崎萬長
建物構造 木造2階建て
建物面積 318.9㎡
敷地面積 ー
所有者 栃木県
管理者 道の駅「明治の森・黒磯」那須塩原市農業公社
開館時間 9:00~17:30
休館日 毎週月曜
入館料 200円
所在地 栃木県那須塩原市青木27
TEL 0287-63ー0399
アクセス 東北自動車道 黒磯・板室IC 6680m 約10分
参考資料 旧青木家那須別邸案内書
青木周蔵 那須別邸 終了
by ooazaisizawa10564
| 2022-09-25 09:50
| 栃木県
|
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